椅子を争う子供達
「暑い」というのにも飽き飽きしてきましたね。
ある保育園でのお話
歌の時間がはじまり、先生が「好きな椅子に座って下さい」と言いました。
部屋の隅にはキャラクターのかわいらしい椅子や手すりのついたかっこいい椅子などが置いてありました。
子供達は競い合うようにして自分の好きな色、形の椅子に座ります。
お絵描きの時間や手遊びの時間など始まる度に子供達の椅子争奪戦が始まります。
そんな中、毎回一人の男の子だけがその争いに参加せず、チョコンと地味な椅子に座って他の子どもたちを見守っています。
その様子を見て先生が男の子に「どうして好きな椅子に座らないの」と聞くと
「どんな椅子に座ってもボクはボクだから」と言ったそうです。
知り合いに聞いたお話ですが大変、感慨深いお話です。
人より優位に立ちたい。よく見せたいと思うのが人間の性ですが、私達の価値とは何で決まるのでしょうか?
背の高い椅子に座っていることでしょうか?煌びやかな椅子に座っていることでしょうか?
いつかは必ずその椅子から降りる時がくるのに・・・
一体、私達は何の為に争うっているのでしょうか?
合掌
心の器
毎朝、テレビをつける度に報じられるのがコロナ感染者の人数。
一昨日は200名、昨日は300名、今日は400名になる見通し。今日までの感染者は数万人。
死亡者は千人超えというニュースを目にする度、「日本の人口は1億3000万人。あと何日経つと自分はコロナに感染するのだろうか」と不安になる。そんな毎日の中、近所のスーパーで感染者が出た為、数日間の営業停止になった。
店の前を通るといつも賑わっているはずが、閑古鳥が鳴いている。
他人事のように思っていたコロナがすぐ近くまでやってきている事に気付かされる。
「まだまだ、若いから感染しても大丈夫だろう」と思う時もあれば「万が一という事があったらお寺はどうなるのだろう」と不安に駆られる時もある。
念入りに予防を続けているが、今は出来る事をやるしかない。
ところで、こんなにも病気や死について恐れをなしたことがあっただろうか。
コロナ禍であろうとなかろうと、人は病気になるし、いつかは必ず天寿を全うする。
あと何日、あと何時間、あと何分、家族や友人と過ごせるのだろうか。
あと何回、他愛もない喧嘩ができるのだろうか。
亡くなれば、大体同じくらいの器に納められて、同じような所に埋葬される。
その時は、財産や家族や地位も名誉も持たせてもらえない。
限られた時間に出来る事は自分の心の器をどのように育てるかではないだろうか。
合 掌
今、確かに生きているということ
先日、旧友に合って食事をしていた。
友人は目をキラキラさせながら
「被災地の人達に沢山教えてもらった」と言ってきた。
話を聞くとお盆のお経回りの為に被災地に行ってきたというのだ。
その友人は現地の事をよく知るAさんと二人で数十件を回ったそうだ。
途中、昼食を取る為にレストランに入った。食事中にAさんはある人に話しかけられた。
振り返ってみると、Aさんの旧友Bさんだった。久しぶりに対面した二人は思い出話を始めた。話が進んでいくとやはり先の震災の話に。
Aさんは
「おじさんは元気?」とBさんに聞いた。
Bさんは俯きながら首を横に振るだけだった。
「おばさんは?」
また首を横に振るだけだった。
そんなやり取りが数回繰り返された。
しかし、「A子さんは?」と言うと
顔を上げ笑顔で
「生きてるよ」と涙を流しながら答えた。
二人はA子さんが生きている事に涙を流しながら話を続けていた。
私の友人はその一部始終を見て
『生きている事に涙を流した事が自分はあっただろうか』と思ったそうだ。
友人は私にゆっくりと語り出した。
「俺達は大体、誰かが亡くなった時に涙を流すものだろ?
でも被災地の人達は生きている事に涙を流す。なぜだと思う」
「分からない」と私が言うと友人は
「被災地の方々は命の尊さを実感しているからだと思う。
生きている事が稀であるからこそ涙を流せるのだと思う。
でも、命の尊さは被災地だろうとなかろうと変わらないものだろう。俺達はもっと真剣に命について考えなくてはいけない」と私に教えてくれた。
私達の命は明日さえ保つ事が難しいものなのに誰しもが明日、目覚める事が当たり前だと思っている。本当は生きている事だけで幸せなのに「もっと、もっと」と貪り生きていく。
苦しい事もあるでしょう。悲しい事もあるでしょう。でも今、確かに生きている。
明日を生きられなかった人達の分、一生懸命に生きていかなくてはいけない。
合 掌